アフリカ大陸【西サハラ】世界地図で「白か薄い色」で色分け表示される場所

アフリカ大陸の沿岸沿いにある、複雑な状況を抱えた砂漠地帯の土地「西サハラ」は知っているでしょうか?今回はそんな「西サハラ」について、実際に現地に赴いて見えてきた街中の景色や、家での生活の様子から見えてくる人々の日常風景を紹介していきたいと思います。

 

この記事の内容は

目次

①Go to 西サハラといわれた日から調べた「西サハラについて」

②西サハラの観光スポットや見どころ

③子どもでも油断は禁物あるある体験

④西サハラで感じたことのまとめ

 

※この情報は2013年11月のものです。

 

 


①Go to 西サハラといわれた日から調べた西サハラについて


西サハラはアフリカ大陸の左上、沿岸沿いに位置する。
世界地図上では、色が白抜きになっていたり、薄い色や他地域とは異なった色で分けられる事も多い。これは、西サハラがどこの国に帰属するかが明確でない為だ。

 

全土はほぼ砂漠地帯「西サハラ」の生活や状況を簡潔に知ってみよう。

それでは西サハラのことを少し。(※歴史はかなり簡略化して書いています。)

沿岸地域や一部の都市を除き、西サハラ全土はほぼ砂漠。
 
人口約30万人、宗教はイスラム教。公用語はアラビア語の方言、ハッサニア語。あとはフランス語やスペイン語も通じる場合もある。
最大都市はラユーン。
 
複雑な歴史背景は…
 
1866年にスペインの占領下におかれ、その後、1975年にスペインは撤退。
モロッコは領有権を主張し、西サハラの人口を遥かに上回る35万人で侵攻。 
それは「緑の行進」と言われる。しかし西サハラのすぐ下にあるモーリタリアも黙っておらず、後に両国から分割統治を受けると言う複雑な形になる。
 
もちろん、西サハラだって抵抗している。
スペインから解放された後、1976年に「サハラ・アラブ民主共和国」として独立を宣言し、独立運動を行う組織「ポリサリオ戦線」は、まずモーリタリアに攻め入る。
有利に戦争を進めた西サハラは、1979年にモーリタリアから独立を果たしたが、モーリタリアが放棄した地域をすぐにモロッコが不法占拠。1988年にポリサリオ戦線とモロッコは国連の和平提案に合意。その後、停戦。
 
国力があったモロッコは西サハラのインフラ整備をどんどん押し進め、ポリサリオ戦線がモロッコに攻め入らないよう、サハラ砂漠を利用し、国境に砂を高く積み上げた「砂の城」を形成。その周囲に鉄条網と地雷を張り巡らし防御している。
砂の壁はイスラエルがヨルダンの侵攻や自爆テロを防ぐために作られた「分離壁」を参考にしており、イスラエル軍の支援があったそうだ。
 
現在の西サハラは国連監視下のもと、独立の住民投票が行える状態ではあるが実施の目途は立っていない。
 
住民投票は「スペイン領・西サハラ」時代に住民登録があった人々が対象だが、遊牧民が多かったこと、戦争中に難民となり国外に出て行った人、住民登録さえしていない人もかなり多いので、投票は行えないのが現状。
ポリサリオ戦線とモロッコの間で住民投票を行う基準の話し合いも折り合わず結局は、モロッコに依存中。




②西サハラの観光スポットや見どころ


そんな状況の西サハラ。
先の人生、モロッコに行くことはあっても、西サハラはないだろうと考えると、珍国魂に火が点く。
張り切ってご紹介せねばと、気持ちはブラインドタッチでキーボードを叩いています。
 
さて、西サハラへはモロッコのカサブランカを経由し、最大都市のラユーンへ。
現地でのドライバーは西サハラの人だが、もう一人の案内役はモロッコから来ていた。歴史的背景があるのに、この二人は大丈夫なのか?と心配になったが、帰るころには、そんな心配は飛んでいた。
 
さすが、ほぼ砂漠地帯の西サハラ。車で少し走ればすぐにサハラ砂漠の一部と出会う。

                 

砂漠に青い空は良く映える。こういう光景を見ると街中にいるのか、砂漠にいるのか分からなくなる。

ラクダは至るところで見かける。西サハラは大西洋沿いに位置する。

石だらけの海岸。色とりどりの綺麗な石がたくさん!波が引く時に、石と石がぶつかりあって「ガラガラガラ~」と音を立てる。それが面白くて、子どものようにずっと見ていた。そして、お気に入りの石探しにも夢中になり、いつの間にか1時間以上の時間を費やしてしまった。


ドライバーとガイドはそんな私を温かい目で見守って…という様子は微塵もなく、おしゃべりに夢中。
石を求め過ぎた私は、気付けば二人の姿は米粒ほどしか見えない場所に。おしゃべり男達はそんなことに気付かない…きっと誘拐されても気付かないだろう。他国でも感じたことだが、イスラム教の男たちは本当におしゃべりが好きだ。
 
西サハラは沿岸に位置しているので、漁業がとても盛ん。マグロ、イワシ、そしてサメなど様々な魚が獲れる。日本のスーパーに並ぶ、モロッコ産の「タコ」は、ここ西サハラからも輸入されている。漁から帰った船は、洗濯物干場と化していたww

漁港で見た光景。荷台の中は生のお魚が。「ご自由にお持ち帰りください。」と言わんばかりの状態。
漁港にトラックが停車している時から、取りたい放題…。

ちょっと気持ち悪いくらい、いる…。このカモメ達の中には常連さんがいて、きっと自力で餌を取ることを放棄している奴もいるだろう。

次は街中へ。
首都の中心にある「中央市場」はモロッコ国王の為に、モロッコが作ったとか。こういうのを目にすると、ここはモロッコなのだと思ってしまう。

ひときわ目を引いたグランド・モスク。美しいのだが、斜めに傾いている…。斜めに傾いても気にせず建てしまう国民性…。

ここはスペイン占領時の旧市街地。一番の繁華街。

地元の人が集まるマーケット。日用品は粗悪品ばかりで、マーケットの人も嫌気がさすと言っていた。品物はほとんどモロッコから来ているとか。そして中国製ばかりで品質は悪い。

決して洗練されているとは言えない、ローカル色強い独特な雰囲気。家での生活の様子や子供たちから見えてくる「西サハラ」の日常の光景

カメラを向けたくなる光景が多々ある。

ローカル色が濃いと、ど素人でもなかなか絵になる光景が撮れる。地元民には日常の光景なのだろうが、日本人にとっては魅力的な雰囲気。

西サハラの窓や扉は、古さの中にとても良い雰囲気を醸し出す。

シンプルだけど、とても個性的な雰囲気。お土産物屋さんや宝石屋さんの扉。

壁とのコラボも素敵!家を建てる時は、こういう扉にしよう。

オシャレでも厳重な扉=治安がよくないということらしい。

中心部からは少し離れた所にある、モロッコ様式の住居。

丸っこい形が何とも可愛らしい。 住居の周りにいた子供達。

 


③子どもでも油断は禁物であるある体験


撮影する気はなかったのに、勝手に入って来てしまった子どもたち。前々から「モロッコの子供は危険だ。」と聞いていたが、ここは西サハラ。勝手に田舎だから大丈夫だろう~と、油断していた。
この子達、最初は愛想が良く、面白がって撮影の邪魔をしていたのだが、だんだんその行動がエスカレート。

「日本人だろ!金持ちだろ!!金を出せ!何かくれ!」

とわめき出し、カメラやバッグを必死で守っていると、危うく倒されそうになった。おしゃべり好きなドライバーも案内人もさすがに顔色が変わり、お守り態勢に。
車に急いで乗り込もうとするが、帽子は取られるは、髪の毛はブチブチ切れるわ、洋服は引っ張られるわ、それを叩いて、振りほどきながら車内へ。子供の数はどんどん増え、車は前に進めない。


ドライバーがクラクションを鳴らし続け、地元の大人が割って入り、やっと脱出成功。日本人であったため、最初は物珍しかったのだろうが、金を取れると考え、豹変したのだろうと…おしゃべり男達は言う。

これも行ってみないと分からなかった西サハラ。勉強になった。

「やはり珍国に油断は禁物である。」

 

とは言っても、必ずしも子供たちが悪いのではないが…。

 


④西サハラで感じたことのまとめ


事前予習で「西サハラの人々はモロッコからの独立が悲願である。」という印象を受けていた為、最初の方に書いたように、地元、西サハラ人であるドライバーと、モロッコ人の案内人がうまくやってくれるのか心配だったが、やはり人と人って素晴らしい。人と人の繋がりには国の問題は関係ないことを感じた。
 
二人とも終始にこやかで、ずっとおしゃべりに没頭していた。運転中も、散策中も、食事中も、お互いのことを良く話し、情報交換をしあい、とても仲良くなって、別れが惜しそうだった。
 
ホテルやお店などでも、ガイドが「カサブランカから来たんだよ~。」と言っても、地元の人と対立することは一切なく、言い争うこともなかった。
 
住民投票といっているが、やはりここは一つの国なんだと感じた。経済的にモロッコ依存が強いので、実際には独立は無理であろう…という現実も多く目にした。
 
モロッコ支配に抵抗する「ポリサリオ戦線」のテロ行為は今も続く。IS、ボコハラムなどの過激派組織などのせいで、アフリカの情勢はますます不安定で、危険なものになってしまった。
 
人と人は心で繋がることが出来るのに、人が人を不幸にしている現実。

平和的な日常の光景はどの国も、とても美しい。この平和が守られることを、ただただ祈るばかりだ。



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